「手伝うよ」がズレている理由

家庭について

保育の現場で、「主体」という言葉をよく使う。

子どもが主体。子どもが中心。

では、、家庭ではどうだろう。

「何か手伝うことある?」

その言葉を聞くたびに、私の中で小さな違和感が芽生える。

きっと、悪気は無い。わかっている。

でも、その言葉の前提にあるものが、気になって仕方がない。

「手伝う」という言葉自体は優しい。

でも同時に、家事は私の役割で、その一部を’’補助’’してくれる、という構図にも聞こえる。

もちろん、夫が私が苦手な家事を引き受けてくれている場面も多々ある。

が、やはり、自主性に欠けるのだ。

「手伝う」というスタンスは、変わらない。

家のことも、子どものことも、

本来は誰か一人の仕事では無いはずなのに。

保育でも、主体が曖昧になると、

気付けば大人の都合が中心になることがある。

家庭も、少し似ている気がする。

「手伝う」ではなく、「一緒に担う」だったら?

主体が最初から’’二人‘‘だったら、空気はきっと変わるはず。

そして、私は思う。

本当に欲しいのは、

手伝ってもらうことではなく、一緒に、対等にあることなのかもしれない。

そのためにも、

私自身が経済的にも時間的にも

一人の人間として自立していたいと思っている。

誰かの厚意に頼るのではなく、

自分の選択肢を増やしていきたい。

保育も家庭も、

誰かが我慢することで成り立つのではなく、

子どもをど真ん中に、

そして大人も対等でいられる形を探していきたい。

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